『福助・ほり川チェーン』のルーツ

福助・ほり川チェーンの歴史を語る時、どうしても避けて通ることができない人物、それが、創業者の堀川泰男です。創業からのこれまでを語る上で象徴的な出来事を、創業者の言葉を交えながらご紹介します。
青字は泰男の言葉です。
 

大正5年(1916)
佃堅水産株式会社創業

堀川泰男の父、堅司が鮮魚問屋を創業、戦前、日本橋から築地界隈で鯛を中心に扱う高級魚専門の仲卸しとして栄えました。老舗の問屋として現在も営業しています。

大正12年(1923)
関東大震災発生

堅司は、「皆が困っているこういう時だからこそ」と、網元に対して買掛金を積極的に支払い、後に大きな信用を得ることになりました。

昭和4年(1929)
株式会社福助(福助・ほり川チェーン)の創業者 堀川泰男誕生

昭和20年(1945)
終戦と同時にGHQにより、問屋は解体状態に。

高校を卒業した泰男でしたが、家業に入るのは、現実的に無理な状態でした。

昭和21年~24年(1946~1949)
泰男はカメラ販売会社に入社、後に寝具販売会社に移る。

そこで営業責任者として、超一流料亭での接待を経験したり、進駐軍との商売を通じて英語を体得したことが、後の『福助・ほり川チェーン』の発展に活かされました。

昭和25年(1950)
GHQの許可が下りて、佃堅水産再開

再開して1年後に佃堅水産に入社した泰男は、早速、さまざまな提案を実行に移しました。例を一つ紹介します。当時丸商売といって、大きくても小さくても「魚は丸ごと1匹」で取引することが当たり前とされた時代のエピソードです。

「高級料亭では鯛のかぶと焼きを出したいので、頭が欲しい。一方寿司屋では刺身にするために身の部分が大量に必要。だったら一匹丸ごとではなくて、切ってそれぞれ別々に販売すればいい」
 

【創業期】

昭和35年5月(1960)
1号店 「鮨と一品料理 魚河岸直営福助」誕生

佃堅水産の得意先で、長年懇意にしていた福助寿司の店主から「自分は店を止めようと思っている、佃堅さんなら魚を扱っているし信頼できるので、店舗と人を含めて後を引き継いでくれないか」と依頼されたことがきっかけでした。
この店は、銀座2丁目、西銀座の旧読売新聞の本社の並びに位置していました。泰男は依頼から24時間で決断、寿司だけではなく一品料理も出すことができる「鮨と一品料理 魚がし直営福助」に改装してオープンしました。

仕事をすることが趣味、そして人のつながりを大切にする、そんな泰男にとって、お客様であった「福助寿司」の名前をそのまま残すこと。それは、飲食業への事業進出のきっかけを作ってくださった方への敬意を示す意味でも当然の選択だったようです。
以降、有限会社福助を設立、新規顧客の開拓、料理店経営の企業化、日本料理の近代化、出張料理、模擬店料理の積極的研究など、矢継ぎ早に取り組み、料理の世界に没頭していきました。

当時、泰男は、朝は魚河岸、夜は長靴を履いてお店、その後は長靴を履いたままお付き合いで夜の銀座に出かけることもありました。

【ホテルに次々と出店】

昭和38年5月(1963)
東京ヒルトンホテルの開業と同時に宴会和食部門の模擬指定店となる。

昭和39年9月(1964)
ホテルニューオータニ開業と同時に、「天ぷら ほり川」を開店。ホテル内の和食部門の調理販売権を同時に獲得し、同ホテルにおける模擬店、出張料理提供の指定を受ける。

昭和40年4月(1965)
ホテルオークラ(高輪関東閣、東京証券会館を含む)宴会和食部門の料理提供の指定を受ける。

昭和40年12月(1965)
ホテルニューオータニ地下1階アーケードに「和風料理 ほり川」を開店

ホテルを相手に次々と事業を始めるきっかけは、東京ヒルトンホテルの当時の幹部が「鮨と一品料理 魚河岸直営福助」を気に入り、たびたび通ってくれていたことでした。ヒルトンホテルでの福助の味とサービスは瞬く間に広がり、その後のニューオータニ、オークラへと拡がっていきました。

【均一価格大型寿司店】

昭和41年9月(1966)
佃堅水産株式会社の50周年記念行事として、数寄屋橋東芝ビルに「魚河岸料理 福助」「寿司 福助」を同時開店

昭和44年2月(1969)
数寄屋橋東芝ビル地下2階に、カウンターの長さ50メートルのマンモス「寿司 福助」を開店

かつて、銀座、数寄屋橋の交差点にあった東芝ビルの地下2階に出店した“寿司福助”は、客席数70席、カウンターの長さが50メートルもあり、先に開店していた店舗(客席数31席)と合わせて101席のマンモス寿司店でした。しかし、このお店に人々が驚いたのは、大きさだけではありませんでした。

「魚問屋が手掛ける限り、品質に一切妥協はしない。本当にいいネタを30円均一でお出しするんだ」

当時、均一料金の寿司店は既に登場していましたが、ネタは「それなり」のものでした。本格的な寿司を均一料金で提供する寿司店の登場は衝撃的で、当時は、「銭湯並みの値段の高級寿司店誕生」とマスコミでも騒がれました。泰男は、明朗会計の上に、魚河岸直営ならではのネタの多さと新鮮さ、さらに従業員の接客態度も素晴らしい、と言われるようなお店を目指したのです。

「常連客とベタベタするな、銀座のクラブの女性だからといってちやほやするな、お年寄りのお客様は大切に、お客様はみんな平等だ」

「開店直後と閉店間際のお客様は大切にしろ、本当に寿司が好きで、さっと1人前を食べて、お帰りになり、そしてまた来てくださる、それは本当にありがたいことだから」

当時の寿司店には、「客を客とも思わないようなそぶりが本当の板さんだ」というような変なプライドを持った板前がたくさんいました。そういった板前は、一見さんや寿司屋に慣れていないお客様だと「鼻にもかけない」という態度をとりがちでした。泰男は少しでもそんなそぶりを見せた板前を絶対に見逃さず、即刻、会社から追い出してしまいました。

「お客様大切の心」をモットーにしてきた泰男の強い思いが表れたエピソードです。

同業組合からクレームがつくぐらい大繁盛した東芝ビルの福助の噂は、あっという間に広がり、後の新宿小田急百貨店、池袋東武百貨店、銀座松屋等の百貨店からの出店依頼へと繋がっていきました。福助新宿小田急店においては、のちに日本一の坪効率を記録(出典:ホテルレストラン誌)し、まさに破竹の勢いが続いたのです。

【アメリカ進出】

昭和46年3月(1971)
ロスアンゼルス リトル東京に、高級日本料理店“レストランほり川”を出店

 

昭和49年4月(1974)
カリフォルニア州サンタアナに、高級日本料理店 “レストランほり川”を出店

泰男が大手建設会社の社長さんからの勧めで、アメリカ出店を本気で考え始めたのは、まだ40歳代になったばかりでした。出店前に全米を綿密に下見して歩いた泰男は“日本料理”と銘打っている店があっても、本格的なものではないこと、そしてさらに「ただ日本の料理を持って行って出せばいい」という考えで、アメリカ人の嗜好についてはほぼ考慮されていないことに気づきました。ロスアンゼルスの1号店は、400坪という巨大なものでした。大きくならざるを得ない理由は、まさに“アメリカ人の嗜好に合わせるため”だったのです。

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入口を入るとまずカクテルラウンジ(バー)。そして中に進むと、寿司カウンター、その横にステーキルーム、さらに奥には、ディナールーム、バンケットルームと続くレイアウトにしたのです。
まず、バーで食前に胃袋を刺激する、というアメリカ式に倣ったこと、そして、ステーキを食べつつお寿司をつまんだり、本格日本料理のコースに舌鼓を打ったり。アメリカの人たちが慣れ親しんだ環境の中で、食事の楽しみ方を自由に選択することができる、そんな特徴を持った高級日本料理店の誕生でした。

そしてその勢いは、サンタアナの2号店へと続いていきました。当時、肉ばかり食べていたアメリカ人に、「肉ばかり食べ続けると体に悪いので魚も食べなさい」という内容がアメリカの「健康白書」に出されたことも寿司ブームへの後押しになったのです。アメリカの店舗は26年間運営しましたが、その間、泰男は200往復以上、アメリカと日本を行き来しました。

昭和46年(1971)
カリフォルニアロール誕生

毎日新聞記事(PDF)

今でこそ、寿司は世界中で知られるようになりましたが、当時のアメリカの人々の間では「生魚は臭い」という思い込みが強く、お店の目玉として設えた22席のカウンターも、最初はなかなか思うようには埋まりませんでした。そこで泰男が考えたのが、現地のアボカドとタラバガニをネタにした新しい巻寿司でした。海苔を裏巻きにしたのは、見た目に対する声に配慮したこと、そして海苔の香りがアボカドのデリケートな味わいを消さないように、という味の面の両面に対する配慮がありました。日本への逆輸入は、昭和51年のこと。今度は「果物を握るなんて」と抵抗する職人たちを説き伏せて、東京銀座の福助本店で提供することにしたのでした。その後カリフォルニアロールが広く世間に知れ渡るようになったのはご承知のとおりです。

【人づくり】

その後、アメリカの両店は、リトル東京の退潮などもあり、平成7年にサンタアナ店、平成9年にロスアンゼルス店を閉店しましたが、25年以上に渡り、アメリカの地で本格日本料理店の草分けとして営業を続けることができました。

「板前」という職人が多い「寿司・日本料理」という分野において従業員教育は簡単なことではありませんでしたが、泰男は、日本でもアメリカにおいても言うことはいつも同じで、次に紹介する3つでした。

「食に関心を持て」
食べる喜びを知っている者でなければ真の顧客サービスはできない。
「サービスは平等に」
どんなことがあってもお客様を差別してはいけない。
「暇な時こそ活気を作れ」
満席時は必然的に活気が出るが、お客様の少ないときこそ従業員が活気を作らなければならない。

その後、時代の流れとともに、店舗は開店閉店、リニューアルを続けながら営業展開してきました。その間、平成17年10月、先代の堀川泰男から、現社長の堀川浩へと代表取締役もバトンタッチしました。
しかし、どんなに時が流れても、泰男が株式会社福助の社内に築いた「こころ」だけは『福助・ほり川チェーン』で働く一人ひとりに息づいています。

経営理念
お客様大切の心をモットーに、
常に新しい食文化を創造し
心をこめた食を通じ
社会に貢献しよう。

ここでは、「福助、ほり川グループがどのようにしてできて、何を大切にしているか」という点の紹介に力点を置いたため、詳しい沿革につきましては沿革のページをご覧ください。また、福助、ほり川にお越しの際は店舗紹介で現在営業しております店舗や所在地をご確認くださいますようお願い申し上げます。